貴方と解ける雪女

春を俟ち あなたと解ける 雪女 只々地は 日に照らされり

ANAMAN

 江戸川乱歩の『鏡地獄』をご存知だろうか?鏡の魅力に取り憑かれた青年が、内部が一面鏡の球体に入って気が狂ってしまうという物語だ。馬鹿げた話だがそれを試した者は誰もいない。現実にそんな場所に入ると人はどうなってしまうのか?

 今から語るこの物語もふざけていると一笑に付すようなものかもしれないが、誰もそんな経験をした者はいないのだ。空想を絵空事と断言することはできるのだろうか?神話に変わって台頭した科学に。

 人の思いつく物で実現できないことはないというなら何故神はその御力をあらたかに示してくださらないのだという問いに答えることなどできるのだろうか?我々非力な人間に。

 

 

 今日もまた高橋は20階の窓から見える道路を挟んだ向かいのそのまた向こうに見えるマンションの同じ階を覗いていた。数日前のことだ、ベランダに出て星座でも見ようかと望遠鏡を取り出して、でもそんな気分でもないのでヒッチコックの『裏窓』のつもりで深夜のチカチカする住宅街を映し出したとき。辺りで一番高い先述したマンションにカーテンも付けずに外から丸見えの一室を発見したのだ。殺風景な部屋で照明以外には中央に陶磁器製の花瓶というかティーカップに百合の花が活けてある。そこで男が全裸で体操をしていた。大仰な動きで快活なのだが決して中央のティーカップには当たらない。くだらない、と思って高橋は部屋に戻った。

 次の日、同じ時間帯にふともう一度その部屋を覗いてみた。今度は全裸でひたすら倒立をしている。顔が鬱血して青みがかっている所をみるといつからその姿勢だったのか、電車で首を恐ろしい角度に捻って眠るサラリーマンを見た時のように心配になった。

 数分するとさすがに男は倒立を解除して片膝を立て壁にもたれかかった。顔は無表情だが肩を怒らせ必死にハァハァ言っている。しかしある程度休憩するとまた倒立を始めた。何故か今日はそれがめちゃくちゃツボにハマってしまった。爆笑し続けて気づけば5時間以上経過している、こんなことで?なんだ?仕事疲れか?いや、親の会社でただ座ってスマホをいじっているだけでお金の入るとんでもなく簡単な仕事だ。とりあえず今日はもう寝なくては。急にドッと疲れたような気がした。

 

 

 それから高橋はその男に夢中になった。謎というのはいつも人を惹きつける。理由も目的もわからない謎の男。誰に打ち明けるでもない密かな楽しみ。異界を覗き込むようなスリルがあった。

 

 

 そんな日が二、三日経ち、そして今日…。いつものように男が部屋に現れるのを待って望遠鏡越しに、珍しく電気のついてないそこをじっと覗き込んでいた。すると突然パッと電気がついた!今日は一体どうして俺を楽しませてくれるのだろうか?

 男は左手にリモコンをもちフランス窓に向かってお尻を突き出した形で前屈みになっている。そうしてお尻の穴をヒクヒクさせながら開いたり締めたりしている。クリーチャーが獲物を待ち構えるようなそのおぞましさは、穴という空洞のエロスを一層際立てた。・・・高橋は思った。これは映画で観たモールス信号とやらではないのか?何故そんなことを天に向かってしているのか、さっぱり分からなかったがともかく携帯でモールス信号を調べて解読してみることにした。・・・高橋は驚愕した。男はこう言っていたからだ。

 


 「ユウアアネクスト」

 


 ・・・高橋は気づいた。男のいる25階建ての高層マンションより南5キロメートル以内で高い建物はこの20階建てのマンションだけだった。つまり男の部屋を覗くことが出来るのは高橋だけだったということになる。既に男の部屋は電気が消えていた。高橋はゾッとする怖気を気持ち良いと思った。

 


 高橋は数日後、警察によって遺体となって発見された。傷ひとつなく死因も不明、さらに効きすぎた冷房がつけっぱなしで遺体は生きているかのように綺麗なままだった。死顔は天国の夢を見ているように莞爾としている。まあ当然天国にいるのだが。しかして高層であるのに段々と値が下がっていくこのマンションにまた新たな被害者がやってくるのだ。全裸の男はというと、今日もまた部屋で……。