貴方と解ける雪女

春を俟ち あなたと解ける 雪女 只々地は 日に照らされり

行きずり

 伊坂幸太郎を読んだ。『ホワイトラビット』。

 こういう群像劇は無条件に愛してしまうのだ。砕けた文体も心地よい会話のテンポも『レミゼラブル』の引用も素晴らしい。読んでみたくなった。時間軸をいじりまくるこの構成も月並みな表現だが小説だからできるという奴だ。これを映画にするならどうしたら良いだろう?と想像するのは小説を読む楽しみになる。猪田?だったか序盤の登場人物はそれっきり姿を現さなかったが原作既読者を欺くために何処かで再登場させると面白いかもしれない。

 著者の『マリアビートル』という作品がブラピで映画化、来年公開される。これは読まなければ!どうやら山田涼介主演で実写化された『グラスホッパー』の続編らしい。なぜ2作目を映像化?あまり繋がりはないのだろうか。そういう意味で伊坂幸太郎を読んでみたのだが、他にも理由がある。

 一年ほど前、大学の書店で物色していた時…。手には5、6冊を抱え再度あ行から順に本棚を眺めていくと見覚えのあるタイトルを見つけ手に取った。それが『ホワイトラビット』だったのだが、それというのも敬愛する小島秀夫が解説を書いたとTwitterで宣伝していたから。伊坂幸太郎も聞いたことのある名前だしと手に持ったタワーに追加しようとすると、横から訝しそうにこちらと本棚の伊坂幸太郎の著作を交互に見やる学生がいる。大学内では瘴気を武装している俺は、よくもずけずけと人の中に入る!と言わんばかりの気持ちだったがその学生は何か言いたげにモゴモゴしてポケットから手帳を取り出した。声が出せない人なのかと早合点して、(本当は彼は耳が聞こえないのだが俺が対人に慣れていないための誤解をしていた)彼の書く言葉を待っていた。

 <伊坂幸太郎、好きなの?>
「えぇ…初めて読んでみようと思って…」

バカだな〜俺。恥ずかしい。

 <ごめん、耳が聞こえなくて>

「あぁ、ごめん」

やっぱり喋ってしまうんかい!

 <初めて読んでみようとおもって>
 <伊坂幸太郎の中ではこれが一番面白いよ>
そういって彼が手に持ったのが『ゴールデンスランバー』だった。

 

 <誰が好き?>


俺は好きな作家を説明する。馬鹿なのですぐ身振りや手振りをしてしまう。そしてめっちゃ喋ってしまう。熱が入ってつい語りすぎてしまった。何せ大学で声を出すのは学食の「うどんで」という四文字だけだからだ。

 俺は赤鬼と一緒で人間が好きなんである。でも人付き合いがどうも上手くできない。他人には心を固く閉し、親しくなれば変な部分が多すぎて距離を保たれる、悲しいモンスターのよう。読書が好きなその学生と知り合えて嬉しかった。彼が心を開いてきてくれたというか話しかけてくれてジーンとしたのである。俺の熱弁に若干身を引いていた彼はまた何かを書いている。

 <そろそろ行きます。退散、ニンニン>


このなんとも絶妙なユーモアセンスでハッと目が覚めた。いかんいかん、ついしゃべりすぎてしまった。LINEでも交換しようと思ったのに言い出せずにその場で別れた。でもなんだか結局『ゴールデンスランバー』でなくて『ホワイトラビット』を選んでしまった。さらに一年後にやっと読んだ訳で。彼とはそれきり会わない。今何を読んでいるのだろうか。『マリアビートル』は『バレットトレイン』という名前で公開される。彼は楽しみにしているのだろうか?

 

 というようなことを思いながら読み終えた『ホワイトラビット』。そんなこと関係なく面白かったのだけど、付随する思い出は大切にしたいなとほのぼのと感じるのでした。

久しぶりに日記を再開

 良いものが書けたと思うたびに、あーそういえば俺って落ちこぼれなんだった!と思ってがっかりする。でもせめて自分だけは自分を褒めてあげようと、ね。

 

 久しぶりに日記を再開した。タイトルの伏線回収!

 伊藤計劃先生のブログを読んで一念発起したのである。でも『虐殺器官』は読み終わってません!明日劇場版をみようと思う。結構エッセイとかで影響受けちゃう。三島由紀夫も然り。三島の長編も7冊くらいしか読んでない。めっちゃ好きーって思うけど。新しく三島の文章を摂取するたびにあーめっちゃ好きー!って思うけど著作は3割くらいしか知らない。

 

どうせなのでさっき見たヒッチコックの『ロープ』の感想をば。

 

 擬似ワンカットで全く通用することを実感した。わざわざワンカットを本当にやる必要はない。監督自身が制約をつけてその中で面白くしようと枷として使うならわかるが、ワンカット!と断言するのは非常に身の振り方を考えさせられる事になる。
 ブランドンもそうだ、彼は優生思想に取り憑かれ己が優れた側に立っていると決めつけてしまいそれが自らの首を絞める事となってしまった。そんな未来にも気づかず手駒フィリップを操って嬉々として友人デヴィッドを縊り殺すのである。彼が彼自身の犠牲者を隠したチェストをダイニングテーブルにしてパーティを楽しみ我々観客にスリルを与え続ける中、訪れた彼の思想における師ルパートが箱の中身に迫っていくのだ。
 ブランドンはパーティに昔の恋人ジャネット、彼女の昔の恋人ケネス、そして彼の親友であり今ジャネットの婚約者だったデヴィッドの父親を招待し来るはずのないデヴィッドを待ちながら思い通りに彼らを操ろうと躍起になる。ルパートはブランドン、フィリップ、ケネス、デヴィッドがいた寮の監督だった男だ。当然、ブランドンの性質はよく知っている。彼自身も気付いていない興奮すると吃ることを…。
 ルパートもまたその優生思想で以って周りの下らない人間たちに精密な論理と広大な見識を駆使して優位に立ってきた。そうして彼はこのパーティに仕組まれた違和感という名のロープを解いていくのだった…。

 ヒットラーの名前も出てくるように戦後間もないからこそのテーマ性でもあるのだろう、本当に優劣があったとして自分が優の方選べるってすごい事よ。周りの人間と俺は違う!って思ったとしてもそれは本質的には劣の側である事を認めていると思うのだ。とまあ、がみがみ独り言ちているが、擬似ワンカットの繋げ方が人物を部屋と部屋を交互に行き来させる事によって画面を人間の背中のアップで真っ暗にして切り替えていく方法で行われていて不自然なく見れる。そしてカメラが常にデヴィッドの入った棺を中心に動くのだ。賓客がみな不在だと思っているデヴィッド、だが彼は確実に存在していると画面で語っている。恐ろしい作品だ!
 それと古畑とかもそうだけど探偵の犯人への敬意というか物語上そうしないと破綻するというのもあるが、絶対答えを解っているけれどもゴールまで一っ飛びじゃなくて一歩一歩着実に近づいていくその論理の美学に惚れ惚れする。今作はブランドンもルパートに対して論理で立ち向かうので非常に見応えがある。だからラストの余韻も深い。

現代J-POP文学

最近、「夜に駆ける」生活を繰り返している。「ヨルシカ」起きてない。もう「ずっと真夜中でいいのに。」青天「白日」が嫌いなのだ。でも友人には「YOASOBI」はやめろと言われる。

 

 

*最初は辻褄合うがそのうち無理やりいれこむことで崩壊してく。すでにこのアイデアありそうだが、とりあえず。誰か完成させて

ち○毛とま○毛についての集成

 電車に揺られ車窓から雪の積もった町をみていてふと思った。……なぜち◯毛はち◯毛なのだろう。待って! それが目に浮かぶなら一緒に考えて欲しい。ち◯この上下はどっちなんだろう?硬くなった時のち◯こを人は勃起と言う。起きた状態ということはだ、正しいち◯この形は勃起状態の時になる。そうなれば天をも衝かんとする勢いで直立している亀頭部分が頭になるということは一目瞭然である。

 

 

 ここで私が述べたいのはち◯毛の名称についてである。つまり「ち◯毛」ではなく「◯こ毛」なのではないだろうか?なんなら「こ毛」なのではないだろうか?(男性器の呼称をち◯ち◯とするならば、「ち◯毛」となるだろうが、女性器の話もあるので後述)読んでいる方にはさっぱりわからないという方もいるだろう。そういう人のために説明をすると亀頭から肉体(棒の部分)、根元までをそれぞれ区別するとまず亀頭部分は「ち」になる。肉体部分は「ん」だ。根元は「こ」である。ハァ〜!と余りにわかりやすい説明に思わず唸ってしまった方、そういうことなのだ。だれの「ち◯毛」に亀頭と尿道から生えているものがあるというのだ。「ん」の部分にはギリギリ生えている方もいるだろう。しかし厳密には「ん」の後ろから4分の1ほどだ。したがって発音は「nこ毛」、もしくは「っこ毛」になる。

 

 

 それに対して「ま◯毛」は正しい定義に則っている(厳密には「上ま◯毛」になるが、さらにいうならば「上ま横ん毛」になる。訳はお分かりだろう。)といえる。女性器をま◯ま◯と呼ぶのは恐らく赤ん坊になりたい大人たちだ。

 うん、しかしまあ、それにしてもち◯毛と呼ぶよりもち◯ち◯毛の方が語呂がいい、ま◯毛よりもま◯ま◯毛の方が伸びがいい。ホップステップを飛ばしたにも関わらず、それと同じほどの跳躍力を得たジャンプのようだ。

 

 

 …電車はしばらくの間進んでいて気づけば晴れ模様で雪が積もっていない所まで来ていた。

首斬りの美学

 刑罰の歴史は人類の歴史に比例して発展してきた。人類が発展途上に至った訳は即ち刑罰の衰退にある。首斬り浅右衛門が途絶えた旧刑法の制定によって、文明国に成り下がろうとした我が国も同様の結果をさあ、御覧じろ。

 

 フランス革命のギロチンに斃れたマリーを想う。シャルルアンリサンソンの情熱を想う。あの一瞬、刃が肌に触れて民衆の目のような冷ややかさを感じたまま己の肉体を遠くに見据え、フェードアウト。

 

 美学を貫く容易ならぬ心持ちで締まった肉の奥に眠る臓を溢れ出させて首を飛ばした三島由紀夫は己の滑稽にもおもえる死に顔を見て何を感じただろうか?ああ美学とは滑稽なのだ。玩具の如き滑稽なのだ。

 

 映画文明が起こった1890年代、早くも映像の魔術を斬首で描いた『メアリー女王の処刑』はまさに今手を掛けられんとするメアリーを直前に人形と置き換える事で見事な切り離しをみせる。

https://youtu.be/uv9zuJObOek

 

 人々は野蛮な本性を卑しくも顕に法治国家の名の下に映像に暴力を追求し熱狂した。効果音と共に刀が振り下ろされ地に転がり落ちる無機質な球体。直前まで恐怖にしろ、雄姿にしろ、溢れんばかりの生気を持った人間がたちまち、哀れな玩具に成り果てる。そこにこそ、我々は美学を見出して人間の魂の尊厳は死の前ではいとも簡単に無に帰せて見世物の栄光とともに記憶からも消え失せていくことを知るのだ。

 

学生服

 僕らは汗をかいていたので、少し涼しい風の吹き始めた夕焼けの色の矛盾に驚きながらも学生服を脱いでシャツ姿になった。ただただ広い野原に立ちすさみ、ぼくは隣にいる少年となぜ仲良くなかったのかを考えている。そこから少し遠くには歩道があり、そこを小学生の集団下校が通りゆく。ぼくは隣の少年に「僕らはあの子たちがよく見えるが、あの子たちには僕らの姿は見えているのだろうかね。」と訊ねた。少年は怪訝な顔をしながら「・・・知らないよ、そんなこと。」と軽くあしらった。

 

 ぼくはやっぱり、なぜこの少年と仲良くなかったのだろうと考えていた。

スクールデイズ

 

 スクールデイズめちゃくちゃ面白かった。主人公がクズすぎて普通の学園ラブコメディが右肩下がりにホラーになってく展開が良い。12話で完結なのでまさしくジェットコースター。こういう絵柄はほとんど見たことないがわりと見れる。リアルな絵でもなんか違うし、アニメ絵だからできる表現(ヒロインの目)がやっぱり強み。まあ実写でもみてみたい。神木隆之介(敬称略)とかで。

 

 自分的には読む人に観たいと思ってほしいので、ある程度あらすじとかも説明したい。ネタバレのない範囲で。

 

 主人公の伊藤誠は高校1年の2学期に入って電車で会う同級生の桂言葉(ことのは)に一目惚れする。好きな人の写真を待ち受けにして1週間誰にもばれなかったら恋が成就するというまじないを実行しようとするが、1日で隣の席の西園寺世界に見つかってしまう。世界は邪魔したお詫びに2人の仲を取り持ってくれることに。両思いが発覚した見事交際に発展した2人だったが、世界は成就のお礼代わりに誠の唇を奪ってしまう!実は世界も誠のことが好きなのだった。。

 しかし言葉とうまくいくようにアドバイスする世界。世界を頼って相談する誠。お金持ちのお嬢様で貞操の固い言葉に誠はどんどん窮屈さを覚え始める。遂に誠は世界との電話で「言葉といるとなんか...疲れる」とこぼすのだった、、

 

 これだけ書けばもうあとは観たくなるはず。それまでほんわか、ちょっときゅんきゅんな展開が急にこのセリフでトーンダウンする。この静寂感。恐ろしい。キャラクターに共感はしづらいかもしれない。いくら好きとは言え、恋のキューピットになっておいてキスしたり明らかに波紋を起こそうとしているように感じられる。だがキャラの心情を抜きにして考えれば、伏線の貼り方が絶妙なのである。

 

 さらに演出、声優の演技力もあるので全然違和感はなく観れるのだ。ハーレムモノの究極形と言っていい。まあ他の見たことないけど。

 

 ついでに何かこの作品を観る意味を追求するなら、何事も疎かにしないようにするべき、とかまあ色々あると思う。でも単純に先が気になる!と思って観ればすぐ終わる。最終回の言葉(ことのは)の紡ぐ言葉が実に美しい。恐怖と共にそのシンプルで洗練された言葉が異様に光り続ける。

 

夢野久作の詩で締めたいと思う。

「胎児よ 胎児よ なぜ踊る 母親の心がわかって恐ろしいのか」